サークル『教養強化』のブログ

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テントの中心で実存を叫ぶ——キャンパス・テント闘争

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一人には広すぎるテント。実存を叫ぶのに格好の場所である。


 いま私は、大学の一角にテントを構え、この文章を書いている。

 

 

 そもそもなぜ、大学内にテントを張っているのか?

 まず一つに、腰抜け大学のオンライン授業への不満を挙げておく。私は2020年に大学に入学した世代だが、昨年度は全授業がオンライン、今年度の前期は申し訳程度の対面期間を挟みつつ基本はオンライン、という有様だった。そして10月1日に始まった後期の授業もオンライン。来る日も来る日も部屋の中で13.3インチの画面を覗いていたら、もう大学生活の半分が終わりそうである。こんな生活に耐えられなくなって、とりあえず大学に来てみた。

 二つ目に、学生運動への憧れがある。この「テントの中心で実存を叫ぶ」略して「テンチュー」が学生運動の一環だなどと大口を叩くつもりはないが、少なくとも全共闘運動の問題意識を受け継いだ上で、何かできることはないか、と考えてきた。この辺は長くなるから、後ほど説明しよう。

 そして三つ目には、この時期は涼しいのと(といっても相当寒くなってきたが)、ちょうどテントを持て余していることがある。過去に「路上教養強化」と称して大学内にテントを張り、そこで勉強会をしたことがある。この顛末は「BIG KYODAI IS WATCHING YOU!!」にまとまっているから、ぜひそちらも一読して欲しいのだが、ともかく、このとき使ったテントをどこかでまた役立てたいと常々思ってきたのだ。だから、実はテントである必然性は全然ないのだが、以下ではそこを無理やり理屈づけたいと思っている。

 

 

 では、大学内にテントを構えることの意味について述べていこう。ここでのテントは、全共闘運動でのバリケードのオマージュのつもり、である。バリケードとは何か。バリケードとは境界であり、境界のこちら側に「解放区」という非日常=ユートピアを作り出す壁である。全共闘運動における「大学解体」とは、教養主義の没落、大衆社会化、大学の「就職予備校」化という流れの中で、大学をバリケードで囲い込み、瓦解させようとする運動だった。だからこの「解体」というスローガンは、その攻撃的な響きとは裏腹に、もはや大学外=日常、大学内=非日常という区別が通用しなくなった時代にあって、特権的な空間としての大学を保守しようとする運動だったとも言えるかもしれない。

 だが全共闘は敗れた。しかしそれは、大学外=日常からの放水、催涙弾、機動隊の攻撃に耐えかねてというだけのことではない。全共闘の学生たちは、バリケードの内部にまた内部を作ってしまった。非日常としての「壁」の内部に日常が芽生えてしまったのである。椹木野衣は次のように述べる。

 

しかし、日常と非日常を、生活と闘争を、アメリカと日本を、弛緩と緊張をなまなましく浮かび上がらせるための装置ともいうべきバリケードの内側にもまた、避けがたく「日常」があるほかなかったのは、もはやそのような単純な二元論によって浮かび上がらせることができないくらい、現代の日本における境界線という概念が複合化し、透明化し、遍在化しつつあったからなのではなかっただろうか。バリケードはしたがって、そのような「境界線」がいまや、いつでもどこでも仮設し、取り壊すことが可能で、日本の至るところに遍在する、実体を失った心理的なものと化してしまっていることを、逆説的に浮かび上がらせる働きをした。

椹木野衣『日本・現代・美術』)

 

 

 椹木の論に従うなら、バリケードが抗おうとした境界の遍在化という潮流は、当のバリケード内部を侵食し、またバリケードの物理的破壊によってますます純粋化・強化された。そしてバリケードの敗北が、「日常」をいっそう前面化させたのだという。

 テントの話に戻ろう。椹木の言を借りれば、テントはまさに「いつでもどこでも仮設し、取り壊すことが可能で、日本の至るところに遍在する」ものであるが、そうでありながら「実体を失った心理的なもの」ではない。取り壊されたバリケードがいわば亡霊となって日本に満ちているのだとしたら、我々はテントとして、実体を現しつつ遍在することができる。(今は私しかいないが。)またバリケードの亡霊が無実体性ゆえに無限に遍在するのだとしたら、テントは有限な(複数的な)あり方をとることができる。

 そして私が境界線の有限化を必要だと考えるのは、そうしなければ何も変わらないからである。富裕/貧困、体制/反体制、都市/地方といった諸々の対立は、その対立の境界線が明確となって初めて、闘争が、または、「越境」や「脱構築」が可能になる。だが亡霊としての境界は、確かに存在するのでありながら、それを認識することが不可能なものである。そのような境界は、境界を保持しようとする意図によって都合よく「存在しないもの」とされてしまうだろう。もはや「隠れた構造」を暴いてみせても、それは「心霊写真」に等しい扱いを受けるだけなのだ。

 

 

 ここまで長々と理屈をこねてきたが、この「テンチュー」がそのような大きな問題にすぐに繋がるとも考えていない。テントのなかにいて見えてくるのはせいぜい、注意しにくる警備員の顔ぐらいのものだろう。あくまでこのような問題意識を背後に、風車に突撃したドン・キホーテよろしく、バリケードのまがいものの中で楽しくやっているということがわかっていただければ幸いである。

 この記事は連載にする予定。次回更新は近いうちに。

(文:ホシ)