サークル『教養強化』のブログ

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第一回路上テント教養強化 議論のまとめ 

 「『人新世の資本論』ブームについて」というミーハーなテーマを設定して、第一回路上テント教養強化を某大学でやってきた。 

 サークルの部員が三人、部員ではない方が二人に加えて、部員でもなく予めの連絡もなかったが、たまたま通りかかって一瞬寄って行ってくれた方が一人の、合計六人という構成であった。 

 途中、大学の警備員に注意されるというアクシデントもあったが、二、三時間ほどの間、熱い議論を交わすことが出来た。大学の警備員が注意してきた件についてはこちら。 

 

kyouyoukyouka.hatenablog.com

 

 本記事では、「『人新世の資本論』ブームについて」というテーマで、どんなことを話したのかを記しておこうと思う。
 因みに、今週の金曜日に、全く同じテーマで同じことを、横浜のどこか、恐らく横国あたりでやります。参加希望者は連絡ください。

 


① 内容の確認

 『人新世の資本論』そのものの学習会ではなく、それをメタ的に分析するという会だったから、読んでない人でも参加できるという形式であった。参加者の殆どが読んでいたのだが、一応、質問、或いは補充や訂正を交えながら、以下のレジュメに従って、内容をざっと追った。本当に内容をまとめているだけで余り面白くないと思うので、レジュメについては割愛する。


② 疑問点・批判点

 内容をざっとさらった所で、踏み込んだ議論を始めた。

 ここから書くことは、僕自身の意見でも、或いは、サークル全体の意見でもなく、全体として、どんな意見が出たかを列挙するだけである。だから、各内容ごとを突き合わせると、矛盾も出てくるが、それは了承して頂きたい。


 始めに、第三章で批判されていた広井良典のゼミにいる方が、内容についての批判を始めた。論点としては、労働価値説の失効ということと、「脱成長コミュニズム」は、結局広井的な「脱成長資本主義」と同じではないかということであった。

 第一に論点が、労働価値説というのは、商品の交換価値≒価値についての言説である。アバウトに説明すると、商品の価値の大小は「人間が何時間くらい働いたらこの商品を再生産できるか」ということに依存しており、つまり人間の労働時間に価値の源泉を求めるという言説である。

 マルクスが生きていた時代は、労働価値説にリアリティがあったが、それは現代ではない。何故なら、雇用と労働との均衡が崩れてきているからだ、という様なことをおっしゃっていたと思う。経済学者である岩井克人の説も援用されていた(僕が経済学に本当に疎いのでこの部分はよく分からなかった。)。

 第二の論点が、脱成長コミュニズムと、脱成長資本主義(cf.『ポスト資本主義』広井良典)とが、何が違うのかという話であった。確かに、地球環境の限界を理由に、生産、消費を抑制しようという点も似ているし、市場の原理から離れたところに、ローカルなコミュニティに着目するという点でも似ている。斎藤がコミュニズムという言葉を使うのは、「コモンズ」という概念を用いてのことだが、そこにどれだけリアリティがあるか……。

 違いとしては、斎藤幸平が明確に、「グローバル」な観点を導入していることだろう。しかし、資本主義を超えたコミュニズムについて、その具体的イメージが持たれない以上は、それが目指す形態について、「ポスト資本主義」と「脱成長コミュニズム」が、結局のところ類似の感を持ってしまうのは、致し方ないところである。


 加えて、「使用価値経済への転換」ということの曖昧さについて批判する人もいた。

 斎藤はこの本の中で、論の本旨からズレるようなところでも、資本主義的消費のバカバカしさを語った。そうした、「価値」しか持たないバカバカしい生産/消費ではなくて、本当に「使用価値」(有用性)を持ったものを重要視する経済へと転換しようということであった。

  しかし、「使用価値」それ自体に大きさをつけられるのか。量的な「価値」に対して、質的な「使用価値」は、有用性の大小を判断することが難しい。パンとダイヤについて考える時に、貧困問題なんかを考えたりすると、確かにパンの方がダイヤよりも、「使用価値が高い」と言いたくなってもしまうが、そんなことを言ってしまっていいのか。

 商品が持つ有用性だけではなく、商品体そのものである物体それ自体を指して「使用価値」と呼ぶこともあるが、そういう意味で「使用価値」という言葉を使うと、問題はもっと分かりやすい。パンもダイヤもどちらもそれぞれの「使用価値」があるだけであって、どちらに優劣もつけられないのではないか。

 斎藤幸平は、進歩史観唯物史観と完全に分離したマルクス読解を提示することで、スターリニズムから決別、引いては、旧来の左翼的発想から決別したのだということを何度も強調している。しかし、「脱成長コミュニズムにおける使用価値経済への転換」において、結局、「地球環境の危機」という「真理」に対して、それに対処する為に、独断的に、左翼インテリがいらないと思った使用価値を排除して、必要だと思った使用価値を重視しようとする点では、良くも悪くも、昔ながらの左翼インテリなのではないかということが語られた。


 それと、これは斎藤が学者であるが故のしょうがないことだとは思うのだが、「脱成長コミュニズムを謳うのに、わざわざマルクスを持ち出す必要があったのか」という点を言う人もいた。主に第四章に関わる部分である。

 確かに、晩期マルクスの研究で、斎藤は国際的に認められているのだから、研究の最前線にいることは間違いないはずだ。しかし、それを新書で表現するにあたって、色々と無茶がある気がする。例えば、『ザスーリチ宛の手紙』について、その内容自体はそっけないが、それが三度も書き直されているということは、マルクスがこの文章をよくよく考えて書いた証拠であって、この文書こそがマルクスの真意だったのだ、と、斎藤は言うのだが、えぇ……と思ってしまう。

 最先端のマルクス研究として、斎藤の研究は物凄いのだろう。しかし、通常進歩史観として理解されるマルクスを、今更になって“あえて”取り上げて、“新書”として出す。説明できない所も色々あるのだろうが、こんな無理をしてまで、「晩年マルクスの『真意』」なるものを持ち出して、脱成長コミュニズムを語る必要はあったのか。マルクス的なフレームワークを用いながら、斎藤が持論を語るという形式の方が、自然に理解できる気がする……ということが語られた。


③ 肯定点

 広井良典のゼミの方の勢いが凄くて、色々と批判的なことが多く言われたが、肯定的な評価も為された。


 まず、シンプルに、時代を掴んだ上で、それなりにラジカルである本が売れているのはいいことだという人がいた。昨今、気に食わないことに、SDGsなんかが流行っていたりする。確かに、現代、環境問題は深刻なのだろうが、国家や企業と連帯しながら解決していきましょうみたいな風潮は気に食わない。

 『人新世の資本論』では、しっかりと、環境問題の重要性を認めた上で、「SDGsはアヘンだ」と、厳しい批判をする。こうした、ある種のラジカルさを持った本が売れているのはいいことだろうということであった。


 加えて、先の「使用価値経済への転換」という点にも関連するが、新書故に、少しずつ曖昧なところは確かに残しているが、それでも、全体の方針として、「コモンズ」の民営化、私有化、独占化に対抗するという論点それ自体は、賛成できるものだという意見があった。

 確かに、この本はあくまで「新書」である。そのことを考えると、説明しきれない曖昧さは必ず残ってしまうだろう。寧ろ、曖昧さを残しながらも、全体の論旨を何となく伝えることが大事という側面も、新書にはあるだろう。


④ 路上教養強化の今後

 全体として、こんな感じの議論が為された。

 サークルでは普段、タコツボの中でニッチなテーマを語り合っていることが多いのだが、それでは興味を持ってくれる人も少ないと思うので、こういったオープンな形での会を開くときは、それなりに広く話題性を持つものを、今後も取り上げていこうと思う。その中で、肯定的な意見も否定的な意見も含めて、様々な議論が出来ればよいだろう。 

 今後も関東、関西を中心に、「路上テント教養強化」は続けていく。どなたでも参加できるので、興味がある方は、以下のメアド、或いはTwitterまで連絡を。


kyouyoukyouka@gmail.com

サークル 『教養強化』さん (@kyouyoukyouka) / Twitter