サークル『教養強化』のブログ

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差別が存在しない世界の居心地の良さについて

執筆者:ホシ

 

シミズ同志によるブログ開設・活動方針の発表からはや一ヶ月弱経つ。ブログの更新を今か今かと待ち受ける読者諸氏(3人もいれば良い方である)のために、文章を投稿したいと思う。

 

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わからない、と思うことがある。

 

例えば、大学の門前で、奇怪な格好をした学生がいて、何か熱心に訴えかけている。しばらくすると腕章をはめた教員が現れて、彼を取り囲む。彼は語気をますます強め、なぜビラすらも配れないのか、自治を守れ、大学に自由を、学生に自由を、と叫ぶ。

 

わからない。なぜ彼はそんなに熱心なのか。なぜそうまでして抗議するのか。大学は楽しいところじゃないか。私たちは十分自由じゃないか…訝りながら、あるいは、全く気に留めることなく、口論を横目に、昼休みを終えた学生たちは次の授業に向かう。

 

大学に抗議するというなどということは日々の安寧を享受する我々一般学生にとって縁の遠い話であり、所詮一部の「アヤしい連中」のやることのように思える。しかし本当にそうか。絓秀実は次のように書いている。

 

フェミニズム、ポストコロニアリズム現代思想、文学、クリエイティヴライティング、音楽、美術、演劇、その他諸々のサブカルチャー、広告、イヴェントのマネージメント、IT技術等々といった、かつては『自治的』なサークルが担い、そこで規律/訓練されて人材を輩出してきた課題(そこには、政治的なものも多く含まれている)が、学生消費者主義=大学改革の名の下に、正規のカリキュラムに登録されるようになった。」

(『ネオリベ化する公共圏』)

 

これは衝撃的な事実である。なにせ、今大学で開講されている『フェミニズム概論』だの『アカデミック・ライティング』だの、果ては『プログラミング演習』だのといったキラキラした科目は、もともとは正門前で演説するあの「アヤしい連中」と選ぶところのない輩がやっていたことだと言うのだ。大学に異を唱え、アウトサイダーとして活躍していた人々はしかし、今やアカデミズムの中心に躍り出た。大学の内部に入り込んで、実効力を及ぼせるようになった。例えばフェミニズムなら、大学の内部から大学を批判し、「家父長制的体制」を改めさせることができるようになった。

 

これは大いなる進歩だ、という声が聞こえる。

 

この主張は正しい。かつて「所詮学生のたわごと」と一顧だにされなかった領域が、より多くの人に認知され、より社会に浸透していったのだから。

 

これは、「マイノリティの登録」と言い換えられる。つまり、社会外部に存在するマイノリティ的な運動を「登録」して内部に包摂するのである。(そして当然、もとマイノリティであった者らの主張は一部反映される。)大学においては、絓が述べるように「カリキュラムへの登録」という形で行われるほか、「より良い大学作りのために取り組むべき課題」として取り入れられる事になるだろう。

 

「登録」は、しかし、体制の変革を意味しない。大学を脅かすかと見えた主張は、今や脱-政治化の過程を経て「実証的」な「社会学」である。主張とまで行かなくとも大学生活のいわば傍流をなしていたサブカルチャーは、今や講義室の中にある。ラジカルな批判をしていた活動家たちは牙を抜かれ、ジャンクな文化はただの物珍しい文化として消費されるようになった。

 

それだけではない。倦まず怠らず勤勉になされてきた「登録」は、社会外部の「アヤしい領域」を恐るべきスピードで縮減させていく。そして「登録」が一通り済んだ頃、体制はこう宣告する。「さて、もう差別はなくなりました。未だ解決すべき問題はありますが、我々はそれら全てを把捉しています。だから安心してください。そしてともに残る問題の解決に取り組みましょう…」

 

差別が存在しない、すばらしい新世界。余計なことさえしなければ、安寧は補償される。なんと居心地の良いことか。

 

だが一方で未だ包摂されざる領域はグロテスクなまでに強調され、「存在するはずがないもの」が「存在する」という矛盾が現前する。「アヤしいけれど面白そう」は「アヤしくて気味が悪い」へと変貌する。大学仕込みの脱色されたサブカルチャーにかぶれていながら、大学前で自由を叫ぶ「得体の知れない」集団を「気味が悪い」と切って捨てる自己の欺瞞に、学生たちは気づかない。

 

耐えざる「登録」の過程は、反体制的勢力を包摂すると同時に、他の集団を「未登録」の存在として際立たせる。「動物化」(東浩紀)した学生たちは「アヤしい連中」の「アヤしい行動」を「わからない」「理解できない」と醜い鳴き声を上げながら、反射的に避けるように調教されている。

 

だから我々は断固として「誤った答え」を出し続けなければならない。すなわち、「体制の内部に入り込み、内側から変えていくこと」=「進歩」を拒否し、体制から睨まれ、嫌われるようなことをし続けなければならない。後退し続けなければならないのだ。どうせ奴らが「進歩」して進んでいく先はロクな場所ではない。そんな心中に付き合いきれないから、我々ははるか後ろを目指すのだ。