サークル『教養強化』のブログ

サークル『教養強化』の活動記録、或いはメンバーの文章を載せます。  ホームページはこちら https://kyouyoukyouka.jimdosite.com/

テントの中心で実存を叫ぶ——キャンパス・テント闘争

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一人には広すぎるテント。実存を叫ぶのに格好の場所である。


 いま私は、大学の一角にテントを構え、この文章を書いている。

 

 

 そもそもなぜ、大学内にテントを張っているのか?

 まず一つに、腰抜け大学のオンライン授業への不満を挙げておく。私は2020年に大学に入学した世代だが、昨年度は全授業がオンライン、今年度の前期は申し訳程度の対面期間を挟みつつ基本はオンライン、という有様だった。そして10月1日に始まった後期の授業もオンライン。来る日も来る日も部屋の中で13.3インチの画面を覗いていたら、もう大学生活の半分が終わりそうである。こんな生活に耐えられなくなって、とりあえず大学に来てみた。

 二つ目に、学生運動への憧れがある。この「テントの中心で実存を叫ぶ」略して「テンチュー」が学生運動の一環だなどと大口を叩くつもりはないが、少なくとも全共闘運動の問題意識を受け継いだ上で、何かできることはないか、と考えてきた。この辺は長くなるから、後ほど説明しよう。

 そして三つ目には、この時期は涼しいのと(といっても相当寒くなってきたが)、ちょうどテントを持て余していることがある。過去に「路上教養強化」と称して大学内にテントを張り、そこで勉強会をしたことがある。この顛末は「BIG KYODAI IS WATCHING YOU!!」にまとまっているから、ぜひそちらも一読して欲しいのだが、ともかく、このとき使ったテントをどこかでまた役立てたいと常々思ってきたのだ。だから、実はテントである必然性は全然ないのだが、以下ではそこを無理やり理屈づけたいと思っている。

 

 

 では、大学内にテントを構えることの意味について述べていこう。ここでのテントは、全共闘運動でのバリケードのオマージュのつもり、である。バリケードとは何か。バリケードとは境界であり、境界のこちら側に「解放区」という非日常=ユートピアを作り出す壁である。全共闘運動における「大学解体」とは、教養主義の没落、大衆社会化、大学の「就職予備校」化という流れの中で、大学をバリケードで囲い込み、瓦解させようとする運動だった。だからこの「解体」というスローガンは、その攻撃的な響きとは裏腹に、もはや大学外=日常、大学内=非日常という区別が通用しなくなった時代にあって、特権的な空間としての大学を保守しようとする運動だったとも言えるかもしれない。

 だが全共闘は敗れた。しかしそれは、大学外=日常からの放水、催涙弾、機動隊の攻撃に耐えかねてというだけのことではない。全共闘の学生たちは、バリケードの内部にまた内部を作ってしまった。非日常としての「壁」の内部に日常が芽生えてしまったのである。椹木野衣は次のように述べる。

 

しかし、日常と非日常を、生活と闘争を、アメリカと日本を、弛緩と緊張をなまなましく浮かび上がらせるための装置ともいうべきバリケードの内側にもまた、避けがたく「日常」があるほかなかったのは、もはやそのような単純な二元論によって浮かび上がらせることができないくらい、現代の日本における境界線という概念が複合化し、透明化し、遍在化しつつあったからなのではなかっただろうか。バリケードはしたがって、そのような「境界線」がいまや、いつでもどこでも仮設し、取り壊すことが可能で、日本の至るところに遍在する、実体を失った心理的なものと化してしまっていることを、逆説的に浮かび上がらせる働きをした。

椹木野衣『日本・現代・美術』)

 

 

 椹木の論に従うなら、バリケードが抗おうとした境界の遍在化という潮流は、当のバリケード内部を侵食し、またバリケードの物理的破壊によってますます純粋化・強化された。そしてバリケードの敗北が、「日常」をいっそう前面化させたのだという。

 テントの話に戻ろう。椹木の言を借りれば、テントはまさに「いつでもどこでも仮設し、取り壊すことが可能で、日本の至るところに遍在する」ものであるが、そうでありながら「実体を失った心理的なもの」ではない。取り壊されたバリケードがいわば亡霊となって日本に満ちているのだとしたら、我々はテントとして、実体を現しつつ遍在することができる。(今は私しかいないが。)またバリケードの亡霊が無実体性ゆえに無限に遍在するのだとしたら、テントは有限な(複数的な)あり方をとることができる。

 そして私が境界線の有限化を必要だと考えるのは、そうしなければ何も変わらないからである。富裕/貧困、体制/反体制、都市/地方といった諸々の対立は、その対立の境界線が明確となって初めて、闘争が、または、「越境」や「脱構築」が可能になる。だが亡霊としての境界は、確かに存在するのでありながら、それを認識することが不可能なものである。そのような境界は、境界を保持しようとする意図によって都合よく「存在しないもの」とされてしまうだろう。もはや「隠れた構造」を暴いてみせても、それは「心霊写真」に等しい扱いを受けるだけなのだ。

 

 

 ここまで長々と理屈をこねてきたが、この「テンチュー」がそのような大きな問題にすぐに繋がるとも考えていない。テントのなかにいて見えてくるのはせいぜい、注意しにくる警備員の顔ぐらいのものだろう。あくまでこのような問題意識を背後に、風車に突撃したドン・キホーテよろしく、バリケードのまがいものの中で楽しくやっているということがわかっていただければ幸いである。

 この記事は連載にする予定。次回更新は近いうちに。

(文:ホシ)

 

 

優しさについて。あるいは左翼的説教臭さと先生的説教臭さ、そして先生萌え

前提

以下のurlの文章についてのサークル内の対話である。

 

http://www.webchikuma.jp/articles/-/2521

 

湖秋水、にゃにゃまるの二名は文章に反発しているが、山田、新潟の二名はそれぞれ違った立場からの擁護をこころみている。また鵜山は読んでいないため、ほとんど議論には参加していない。

 

このネット記事は、ちくまWebの連載、鳥羽和久『十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス』「第6回 差別があるままに他者と交わる世界に生きている」である。このブログはマイノリティに対する差別を主題としたものである。次のような文章で締められている。

 

「あなたには、「優しい」世界にも差別があるということに気づいてほしいし、逆に「差別がある」にもかかわらず優しい世界があるという逆説的な世界とも出会ってほしいと思います。そのために、私はこの文章を書きました。」

 

これに対し新潟コメタローがサークルのチャットルームで「文章の前半部分には同意できないが、この最後の文章は良い。」と発言したところ、意外にもほかのメンバーから反響があった。

 

登場人物

鵜山ユウジ:00年生まれ。笠井潔に毒され、否定神学家となってしまう。ケインズ論、貨幣論を構想しているが、先延ばしになってしまっており、全く手がつけられていない。笠井のほかに中野剛志にも影響を受けている。中学生のころ数か月間ネトウヨだった。現在は戦後民主主義者。

 

湖秋水(こ・しゅうすい)外山恒一シンパのJリベラル大学生。

 

新潟コメタロー:20歳、大学生。外山恒一合宿を経て何かを行動したいと思うも何をして良いかわからず、口先だけでもラジカルになろうとした結果、周囲から「ファッション活動家」と呼ばれてしまう。哲学を志している。

 

にゃにゃまる24歳、院生です。いろんなメディアを使った創作をしていて、パフォーマンス、映像、アニメーションとか、わりとなんでもやります。他領域で活動してる同年代の人たちが何を考えているのかに興味があって、参加(`・ω・´)高圧的な年上世代にはうんざり。時々虚無ります。

 

山田陣之祐日本大学芸術学部演劇学科在学。 次号の『暴論』で政治活動に関するエッセイを掲載予定。 来年の2月11日~13日(予定)、池袋にてハロルド・ピンター作『灰から灰へ』を上演予定。 その他、アングラ演劇に関する評論を別のミニコミ誌上で発表予定。 Twitterアカウント @Jinnosuke0930

 

議論

新潟コ:おれはいい文章だと思ったけど、秋水とにゃにゃまるにちょっといわれて……

 

湖秋水:「優しい」ってなんですか?こんな欺瞞的な文章はないよ!

 

にゃにゃまる:(笑)

 

新潟コ:一読して、いい文章だなと思っちゃったんだけど

 

にゃにゃまる:ほんとに!?


湖秋水:はじめサークルのDiscordに新潟コが「いい文章だな」と書きこんでるのみて、はじめは躊躇したんだけど、にゃにゃまるが「「優しい」ってなに?」っていってて、便乗した(笑)

 

新潟コ:でもなんか思っちゃったんだよね。よく読むと全然だめだめだなんだけど

 

山田:書き方はともかく、いってることは正しいんじゃない?

 

にゃにゃまる:いやいや、一番大事な部分をいってないよね

 

新潟コ:一番大事なのっていうのはどういう部分?


にゃにゃまる:なんだろうな……

 

湖秋水:こんなこといって何になるんだって思った。普通にムカついたんだけど、特にこの最後の文章に

 

山田:どこにムカついてるの?

 

湖秋水:「優しい」?だから何?って。差別があるわけじゃん。それこそ暴力があるわけじゃん

 

にゃにゃまる:思い出した。最後、差別があるってことをわかってほしい、みたいな文章だったんだ

 

湖秋水:そうそう。新潟コは逆にマイノリティを実体化してることに腹をたててるみたいだけど、それはいいと思うんだ。最後の文章は心の底からムカついた(笑)

 

にゃにゃまる:うん

 

山田:「優しい」っていうのを「心地いい」って言葉かえたら、納得できない?


湖秋水:だから何?

 

にゃにゃまる:「優しい」ってどういうこと?何をまとめて「優しい」っていってるの?


新潟コ:どういうことなんだろうな……

 

山田:差別って言葉を原義上の意味でいうと、差異によって人の扱い変えるってことだと思うのよ。扱いの差はいろいろあって……たとえば前近代とかは女性が社会的な方面にでれなかったわけだけど、じゃあそれでその当時の女性全員が不幸だったわけではないと思うのよ。そこには確かに差別はある。でも、全員ではないにせよ「心地よさ」もあったはずなんだ。今のポリコレみたいに、とにかく差別はよくないので、めちゃくちゃ気をつけて言葉を選んで喋ってる集団が「心地いい」かというと、そうではなくてキツイと。そういう意味で、差別はないんだけど心地よくない集団もある。そういうことをいいたいんじゃないの?

 

にゃにゃまる:差別がないとはいってないでしょ?

 

湖秋水:そういうことじゃないでしょ?この文章は完全にポリコレ側で、そんな「左翼活動家の人間関係が冷えついてます」なんて話してないよ

 

山田:読み間違えてたかな……

 

湖秋水:山田の話でも、おれは左翼活動家の人間関係の方が欺瞞的じゃなくていいと思うけどね……それは置いといて、この文章でいってるのは、とにかく差別があるってことで、それに対して、「構造的暴力があるとかいってもしょうがないじゃん」、というならわかるんだけど、ここでは、その構造的暴力を親子の愛情とか友人との絆とかで相対化しようとしてるじゃん。相対化できないでしょ、そんなんじゃ。こんな小学生の絵本みたいな話はないと思ったよ

 

にゃにゃまる:最後にいきなり「優しい」って言葉だしてきたよね

 

湖秋水:そうそう

 

にゃにゃまる:この「優しい」が何を指すのかって。でも逆にその何っていうのをあえて書いてるのかと深読みしたけど、でもそうじゃない

 

新潟コ:確かに素朴にいってるっぽいんだよな……。これはどうしようもない文章だ、けどどうしようもない奴でも愛してしまうことはある!!!

 

湖秋水:そういう話になるの(笑)

 

にゃにゃまる:これって誰宛に書いてるの?あともう一つムカついたのは、あなたは気づいてないだけで差別はあるんだよみたいなことを書いてるけど、この人は全人類に差別意識があると思ってて、なのに自分を棚にあげてて……あなたは?

 

湖秋水:そうだよ!自分を棚にあげて最終的に「優しさ」みたいな話になるんだよ。皆さんに「優しさ」を教えてあげます、差別がある世界でも強く生きてくださいみたいな。どうでもいいよそんなことは

 

にゃにゃまる:そうそう

 

新潟コ:確かに差別意識は皆あって、ある種原罪みたいな感じなんだよね。人類が背負った償えない罪みたいな。ポリコレはそれを告発する側にたって、自分の原罪の意識を薄れさせるみたいなところはあると思うんだけど、最後の差別があるにもかかわらず「優しい」世界がある……

 

にゃにゃまる:「優しい」って何って思ったでしょ?

 

新潟コ:いや、「優しい」が何かはおれにもわからないけど……

 

にゃにゃまる:だから具体的なことをなにも書いてないんだって

 

湖秋水:それはだから「優しさ」を具体的に書いても相対化できないから、あえていいぼかしてるんだってこいつは。そういう詐欺師なんだよ、ペテン師だペテン師

 

山田:いや、素朴に書いただけだと思うけど(笑)

 

にゃにゃまる:素朴に、「優しい」世界ってどういうこと?みんなが差別しない世界ってこと?

 

湖秋水:どちらかっていうと、差別があるんだけど、友人との絆があるみたいな話

 

にゃにゃまる:あーわかった。普通に友達と仲よくしてる世界でもってことか

 

湖秋水:そうそう、「そういう素敵な世界もあるんだよ(笑)」っていうクソみたいな話

 

山田:いや違うと思うよ。構造化された差別があるけど、でもそのうえでおれたちはやっていかなきゃならなくて……みんな普通に楽しくて、心地よいけど、その外にはさっき新潟コがいったような、浄化できない原罪としての差別がある。そのうえで、できるだけ差別をなくした方がいいっていう立場なのか読んでないからしらないけど……

 

湖秋水:ええっ。読んでないの!?

 

山田:読んでないよ

 

新潟コ:なくしたほうがいいっていう立場だよ

 

山田:できるだけなくした方がいいんだけど、完全にはなくせないから、そのうえで、「優しい」世界があるよ……差別をゼロにしなければ人間が幸福にならないわけじゃないよ、ってことをいいたいと思うんだけど

 

湖秋水:でも読んでないんでしょ

 

山田:読んでない

 

湖秋水:読んでないのになんでそんな偉そうに説教できたの

 

山田:いや説教してねーだろ別に(笑)

 

湖秋水:この文章はずっと「お前らは差別者だ」って告発する文章なの。

 

山田:そんな感じなのかなーと勝手に思って……

 

湖秋水:告発するんなら告発しきればいいのに、そしたら最後謎の「優しい」世界みたいな


山田:告発しきれないってわかってるからじゃないかな。たとえばフランスって男性名詞、女性名詞ってあるけどさ、あれ結構差別だと思うけど、それをなくそうってなったらちょっと無理じゃん

 

湖秋水:でも本文読んでないんでしょ

 

山田:うん

 

湖秋水:えぇ(笑)。山田はすぐ、人がユートピア的なものを夢みるのはよくない、ちゃんと細かいとこからやっていこうっていう話にしたがるけど―おれはそれこそユートピアだと思うけどそれは置いておいて―ここでいってる文脈はそういうことじゃなくね

 

にゃにゃまる:そうだね。さっき秋水くんがいってたみたいに、仲いい友達でも実は傷ついてる友達がいるっていうのが「優しい世界」だと思う。

 

湖秋水:友達を差別しちゃうこともあるけど、でも「優しい世界」もあるよっていう(笑)

 

にゃにゃまる:(笑)。さっきぼくが重要な部分をいってないっていったのは、書いてる人もそういう差別意識を持っているって自覚を持ってて、みんながそういう差別意識をどうしようもなく人間だから持っちゃうから、そういう意識を持っているうえで、わたしたちはどうするべきかみたいなことを書くべきなのに、あなたは気づいてないということだけを延々と書いていて、なんか結局「優しい」って言葉でまとめたようなことをいっているから、何だこいつ、誰にいってんの?みたいな

 

湖秋水:そう。左翼的説教臭さと先生的説教臭さが奇跡的にミックスされた信じられないほど説教臭い文章で、せめてどっちかでいけよと

 

新潟コ:まあ、完全にそうなんだけど、やっぱりいいなと最後思っちゃったから率直に書いちゃったけど。よく考えたらちょっと違うなと思ったから、騙されてましたね(笑)

 

湖秋水:反省したまえ(笑)

 

新潟コ:いやでもおれはあんまり反省してない、今後もこれはそれなりにいい文章だといい続ける

 

にゃにゃまる:絶対よくない!どこがいいの?


新潟コ:どこがいいとかはあんまないけど……

 

にゃにゃまる:それ騙されてんだよ

 

湖秋水:新潟コははじめの左翼的説教臭さには反応してるじゃん

 

鵜山:……ていうか新潟コって先生好きだよね

 

にゃにゃまる:(笑)

 

新潟コ:先生好きっていうのは実は当たってるんだよな……。それはいいとして。これは個人の好みだから、相対主義に落ち着いて……(笑)。やっぱり原罪というのはあると思うんだよね。罪と告白っていうのがセットで、こうポリコレ的告白っていうのがさ、「わたしも実は差別してきたんです」っていう、牧師になんかこう、語りかけるみたいな感じで、告白をしてると思うんだよね、差別を。そうすることによって、罪を有限化できてしまうんだよ。無限の罪は償えないんだけど、告白することによって罪を償おうとしてるんじゃないかなと思うんだよ

 

にゃにゃまる:この書いてる人が?


新潟コ:この人は告白一回もしてないから

 

にゃにゃまる:そうだよね

 

新潟コ:これはポリコレのお手本みたいな文章だったな

 

湖秋水:おれは、新潟コの左翼的説教臭さに反発して、先生的説教臭さに迎合しているのが許せなかったんだけど(笑)

 

新潟コ:だからまあ、ぼくの先生が好きっていう内なる欲望が出ちゃってるってことで、もういいじゃん

 

                          文字起こし・編集責任:鵜山

 

BIG KYODAI IS WATCHING YOU!!

 

 「『人新世の資本論』ブームについて」というミーハーなテーマを設定して、第一回路上テント教養強化を某大学でやってきた。

 サークルの部員が三人、部員ではない方が二人に加えて、部員でもなく予めの連絡もなかったが、たまたま通りかかって一瞬寄って行ってくれた方が一人の、合計六人という構成であった。

 本記事は、我々が真面目に読書会をやっている途中に、大学の警備員が注意してきたシーンの文字起こしである。

 これに限らず、サークルの活動に興味がある方は、以下のアドレスまで連絡を。

kyouyoukyouka@gmail.com

 サークルのホームページはこちら

 

 

 

 

 

 路上テント教養強化は、真面目にその狙いを説明すると、シンプルに“教養を強化する”ということは勿論、“群れる”ことすら許さない、徹底的な環境管理を敷いててくる大学の中で、象徴的にテントを設置することで、大した意味もないのに無理矢理“群れる”という狙いもあった。

 ということで、テントを象徴として置いてはおくが、テントの中には入り切らないくらいの人がうじゃうじゃ集まってきくるというのが、サークル側の理想としてはあった訳である。しかし、サークルが宣伝活動を怠ってしまったこともあって、テントに集まっていたのはたった六人だけであった。テントこそ広げているが、身内で本を読みながら学習会をしているだけで、普通の学習会と余り変わらないなあと、内心反省していた。

 しかし、そんなショボい闘争に対しても、大学の警備員は注意しに来て、脅しまがいのことを行い、又、色々とびっくりする様な情報も話してくれた。情けない話だが、サークルの活動が中途半端でショボいものであったが故に、逆にそんなものでさえ注意しに来る大学のFランっぷりが露呈してしまうという形になった。

 文字起こしの内容としては、ナントカ屁理屈をこねてごねている我々に対して、仕事でそれを注意してくる警備員という構図である。警備員との不毛なやり取りから、途中で警備員がうっかり(あえて?)言い漏らしてしまった、ここは刑務所かと思いたくなるような大学の裏事情まで、見どころ盛りだくさんである。

 文字起こしの部分よりも前は、うろ覚えだが、たまたまベンチで集まった数人でたまたま同じ本を読んでいるだけだ‼️とゴネる我々に対して、警備員の二人が、あくまで“お願い”ですが、聞いてもらわなければ写真を撮る、と、我々をビビらせてきた様な記憶である。

 

 注意してきた警備員は二人いて、警備員Aさんは本気で注意しに来ていて、弾圧してきている感じがあったが、Bさんの方は、色々と”あえて”やっているのかと疑いたくなる様な感じで、学校側のイメージダウンになるようなことを言ってしまったり、我々の読書会の水準の低さを大学OBとして叱ったり、はたまた資本論第一巻の魅力を突然長々と語り出したりと、終始、本気で注意しに来ているのか何なのか、よく分からなった。

 水田、鈴原、星本はサークルメンバー、斎藤さん、坂上さんはサークルメンバーではない方、中島さんは、途中にフラッと立ち寄ってくれた方である。

 

 (因みに、ブログタイトルの「BIG KYODAI IS WATCHING YOU!!」は、全体主義社会、監視社会のディストピアを描いた小説、ジョージオーウェル1984』で有名な、「BIG BROTHER IS WATCHING YOU!!」の、BROTHERの部分を、和訳した上でローマ字表記してKYODAIとしてみただけであって、特定の大学を示しているわけではない。)

 

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警備員Aさん(以降Aと表記):……こういうスタイルはね、学校側が非常に嫌がるスタイルなんですよ。五月ね、K大学の関係者で感染者15人出てるんですよ。学校側がちょっとピリピリしとるわけですわ。

警備員Bさん(以降Bと表記):まあ出来ればもう少しの辛抱なんで。

斎藤:いやー、それは分かんないですよ。去年からずっと、「もう少し」って言われてますからね(笑)

水田:今が正念場ってね(笑)

B:それはまあこういう事態ですからね。

A:延長されているので、緊急事態宣言が。学校側もピリピリしているんで、もうこれはお願いなんでね……

B:昨今はね、割と(学校も)しつこくてね。あそこの図書館の前でこたつを出して、本を夜、日をまたいで読むということをやっている人たちがいましてね……

星本:そんなことやってる人たちがいるんですか!?

B:彼らにも、こういう風にお願いして辞めてもらって、その時にね、細かく全部、下に敷いてあるものまで、これは何だ?と聞いてくるのでね、いやなんでしょうねって。で、全部それを報告書で書かされて。翌日も足りないところを書かされて……。で、一応写真を撮りまして、不明なところがあるといちいち、これは何だ?!と聞いてくるわけです。

鈴原:大学側がですか?

B:はい、事務所の方ですよ。それで、報告書出すじゃないですか。一応大雑把な報告書。今までだったらそれで良かったような。ところがね、どういう訳か今年はね、この四月以降、それがもっと細かくなって、そんなことまで聞くのかという所まで聞いてくるんですよ。

星本:ひっでーな……。

B:でね、どんな本読んでたんだってことまで聞いてくるんですよ。

一同:えーーー⁉(驚愕)

斎藤:嫌だなあそれ(笑)

坂上:ヤバすぎる……。

水田:思想検閲だ……。

B:それで見てみたらね、あー、天下のK大生の割にはずいぶん冴えない本読んでるなーと(笑)

斎藤:冴えない本って何だよ(笑)

星本:ちなみに何読んでたんですか?

B:えーっとね、『新資本論講義』だったかなあ……。

鈴原:ちょっと俺らと被ってる(笑)

B:いやー、本来だったらね、天下のK大生だったらね、本体の『資本論』の、せめて翻訳でも読んでいて欲しいなってね。

水田:俺らも流行りの新書なんか読んでるから恥ずかしい(笑)

B:そういうことになってですね、学校側が翌日、何を読んでいたか聞いてくるもんですから、それを言ってということでですね。結構しつこく聞かれるんですよ。

斎藤:(そんなに聞いてくるのは)図書館で借りてるとしたら逆探知も出来るからか……。

B:ということで、出来ればご協力をお願いしたいでーす。

星本:そうですねー。協力はしたいんですけどねー。

B:ましてやこれ密閉空間でしょ?

星本:いや、これ網になってるから、全然密閉じゃないですよ。

B:これでも大体密閉でしょ。

一同:いやいやそれは(笑)

B:見た目がねー。あんまりよくないよ。とにかくできるだけ協力をお願いしたいなあという。

A:学校側から我々に何で言わへんかったんだということになりますからね。

B:写ってますからねこれも。

A:色んな所にカメラあるんで。あそこにあるのも見えているだけじゃなくてちゃんと動いているんでね。

中島:監視カメラが大量にあるぞと……。

A:ここ入ってくるときからもう写ってるから。

星本:そうなんですか?

斎藤:監視カメラなんかがあるんですか?

A:全部の入り口につけてありますよ。

斎藤:マジかよ……。ヤバいな……。

B:ですから、ここに入ってくる時点で既に写ってると。で、他でもあちこちに(カメラが)ありますから。

星本:WATHCHING YOUみたいだな……。

鈴原:確かに(笑)

水田:BIG KYODAI、と(笑)

B:で、新たに三台かな。追加されましてね。

星本:えーーー⁈

鈴原:ヤバすぎる。

B:皆さん学生証持ってるでしょ?ていうことは、顔写真がデータに入っているわけです。こちらは時間だけ言って(カメラの映像と照合して)しまえば、自動的に誰かがわかると。

星本:え、そんなことやってるんですか⁈顔認証のプラグラミングを使っているということ?

A:顔認証なんてそんなんしてると思いますよ。

中島:嘘だろ(笑)

水田:中国みたいだな(笑)

斎藤:撮られたらどうなっちゃうんですか?

B:それは学校側が判断することだから、僕たちは関係ないですから、ただ言われてるだけです。ただもうね、とにかくしつこくてね。だから今日これ(テント)を写真で撮ったらね、何聞かれるのかなあってね。

A:そういうことで、聞いていただけなかったら写真を撮りますということですね。

斎藤:いや、仰る通り、仕事だからそれは分かるんですけど、逆に大学どう思います?大学の対応とかについて。

A:何も思いませんよ。仕事ですから。

B:こういう場合はとにかく、自粛期間中はお願いしてという。で、聞いてくれなければ聞いてくれませんでした、と言えば済むだけのことですから。

星本:自粛期間中じゃなかったらこういうことしてもいいですよと、大学からは言われているんですか?

B:それは、まだ分かりません。自粛期間中のことだけです。ですから、ありえないことは言っても意味がありません。空想ですそれは。ですから、とにかくこういう期間中だけは、出来るだけ自粛して頂きたいと。で、野球部とテニス部だけは、あれはもう仕方がないと。外でやるものだから(何故かBさんもちょっと半笑い)。あれ以外はどうも公認されていないみたいですから。

斎藤:いやいや、おかしな話だ……。

鈴原:確認ですけどお願いですよね。

B:お願いですよ。

星本:でも例えば写真を撮るということになると、一つ、こう、アクションをする訳じゃないですかこっちに対して。

A:顔を写さなければいいでしょ。こういうことやってる奴らがいたっていうことで。代表者は学生証を提示してもらわなですけど。

斎藤:代表者とか僕等いないんだけどなぁ……(笑)。

星本:我らマルチチュードに代表などいない!

B:じゃあまあ一番の年長者か。

中島:俺じゃん(笑)

斎藤:ただ通りかかってフラッと寄っただけで学生証出さなきゃいけなくなる羽目に(笑)

B:一応は、そういうことで。だからもう、何もない方が本当はありがたいんです。こちらとしても。変な摩擦は起こしたくない。

中島:向こう側に、テントなしで集まっている奴らはいたけどね。こっちはテントがあるっていうことしか違わないけどね。この線引きはどこにあるのか。

星本:何人以上がダメとかはあるんですか。

B:いや~、これなんかいかにもこうやって見たらね。誰がどう見ても何かで集まってるなって雰囲気じゃないですか。

星本:それは現場での判断ということですか?

B:ただベンチに座っているだけというのとはちょっと形態が違いますよね。

鈴原:いや、これベンチに座っているだけなんですけど……。

斎藤:とにかくテントが良くないということですか?

B:いや、テントだけじゃない。テントを取っても、これはねー。もし100人の人にこれを見せたら、9割以上はただテントに座っているだけではないと判断するでしょうね~。

鈴原:それは何割くらいの人がそうではないと判断したらオッケーなんですか?

B:何割とかそういう問題じゃないでしょ。

鈴原:でも、あそこのベンチはオッケーなんですよね。

中島:向こうのベンチに五人くらい座ってたけどあれはオッケーなの(笑)

A:いや、それも注意しに行きますよ。これから。

斎藤:そういう問題じゃないでしょ。

A:見た感じの形が明らかに違うじゃないですか。

B:誰が見てもね。もし、どうしてもっていうんであればね、2,3人ずつ離れて座ってやっているんだったらね……

星本:離れているというのが大事ということですか?

A:いやそうじゃないですよ。揚げ足を取らないで下さいよ。

一同:いや揚げ足取ってはないだろ(笑)

B:ちなみに何の本読んでるんですか。

星本:『人新世の資本論』って本ですね。

水田:流行りに乗っかって……。

星本:今めっちゃ流行っているらしいんですよこれが。

B:へー、そうなんですか。

星本:僕らは流行りに乗る、凄いミーハーな集団ですので(笑)

B:本体は読まないんですか?

鈴原:本体って、『資本論』の本体ってこと?

星本:本体は、えーっと…………。

水田:本気出せば読めるんですけどね。今はたまたま手を抜いて新書でも読もうかなっていう気分だったので。

斎藤:ダサすぎる(笑)

坂上:この本は未発表論文に基づいている話なので、本体が資本論っていう訳ではないんですよ。そもそも邦訳もされていないし。ドイツ語で読めっていうのは流石に厳しいし…。

中島:なんか言い訳にしか聞こえなくなってきた(笑)

B:ま、なるべくならば協力して欲しいと。一応撤収するのに時間かかりますよね?ですから、少し経ってからまた来ますから。次は、二時間後くらいに来ますからね。そのころまでには撤収して頂ければありがたいなと。

斎藤:ずっと巡回されているんですか?

B:二、三時間おきくらいにね。何にもない方がこちらも嬉しい。こんなこと報告書に書きたくないですから。

星本:それは申し訳ないんですけど、僕等もこう、向学心に燃えているわけですから……。

斎藤:仕事はちゃんと真っ当したいっていうことなんですか。別に報告しなくてもいいじゃないですか。

B:そういう話じゃなくて一応、こういう形になっていたら声をかけてお願いするというのが今の仕組みだから。

A:君らも社会人だったら報告するだろ。

中島:巡回の間だけ休憩としていなくなってれば文句なしなのかな(笑)

坂上:まあとにかくお願いをされたと。お願いされたのを聞いたと。

 

A:とにかくこのままだったら写真も撮らせてもらうんでね。顔写らなくてもかまへんので。

B:ま、よろしく。因みに本体(『資本論』)は読んだことあるんですか?

星本:ありますよ!あるに決まってるじゃないですか!(大嘘)

B:一巻目の感想なんかあります?

星本:いやーー……。

斎藤:ダセー(笑)

B:僕はなかなか面白いと思ってね。僕は経済学じゃないからあれですけど。一巻目は、世界の文学が1500冊くらい引用されているんですよね。それだけで全部集めたら世界の文学名作集が出来るんじゃないかってね。それが資本論一巻の面白い所なんですよ。

星本:へー。いやへーとか言っちゃった(笑)

B:まあ色んな読み方があるでしょうけど。

坂上:百科事典みたいな位置づけってことですよね。

水田:何故かこんな時に教養を強化してくる(笑)

B:結構ね、世界文学全集の名言集って言ったらおかしいですけど、名場面が多いんですよ。ドン・キホーテの所が一番泣かせてくれますね。

一同:(笑)

B:とにかく面白いんですよ。ただし、二巻目三巻目となってくると、そういうところはないんですけどね。力尽きてきたんでしょうね。僕は40年前の向坂逸郎の翻訳を読んでいて、岩波をずーっと使ってたんですけどね。大月文庫の翻訳はちょっとだめだね。

星本:そうなんですか。大月が一番いいって聞いてましたけど。

B:それは人によりけりですけどね。英訳とかもたまに使ってましたね。何種類もありますから。面白いのは第一巻だね。

星本:へー。

斎藤:今度もしよろしければ、一緒に読書会しませんか?

B:いやいや、遠慮します。

水田:注意してきた人もオルグしていく(笑)

A:毎年探検部がここを使っているからね。それが報告書事案になっているんで、それかと思ったんだけどね。

B:近寄ってみたらどうも違う。

星本:まあ、僕等もある意味知の探検をしているので……。

鈴原:上手い……のか?(笑)

 

 

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 こうしたやり取りのあと、三十分くらいで、第一回路上テント教養強化は、話すことが無くなって自然に終了した。一部のメンバーは、「負けたみたいでいやだから、学習会自体は終わってもいいけど二時間後にまたここに戻ってきたい!!」と主張したが、それは流石にめんどくさいという冷静な正論に敗北し、テントを片付けたのであった。

 たかが六人で読書会をしているだけで注意してくる警備員もムカつくが、撤収に時間がかかるだろうからみたいな謎の理由で一旦放置してくれたし、何故か資本論第一巻の内容について教えてくれたし、何より仕事だし、話しているうちに段々ムカつきは収まってきた。一労働者に怒りをぶつけてもしょうがない(それはそれで”日和見”なのかもしれないけど……)。

 しかし、それを指示しているKYO大は本当にムカつく。それどころか、ちょっと胡散くさい奴がいれば、そいつが読んでいる本を報告させたり、構内至る所に張り巡らされている監視カメラを用いて顔認証をしたりしているという、あり得ない対応には、最早言葉を失ってしまう。

 「コロナ禍だからしょうがない」と納得してはならない。Bさんの言葉を信じれば、学校の指示が細かくなったのは、「今年の四月から」である。コロナによる影響が最も心配されていた頃からはズレている。コロナ禍を言い訳にして、「そろそろコロナ禍も終わっちゃうから、今の内に規制強化しとこっと♬」みたいなノリで大学の監視を進めているに違いない。コロナ禍という、いかにも“政治的に正しい”理由に幻惑されてはならない。

 というわけで、巷でも良く言われていた監視社会の恐ろしさを、初めて身をもって知った、「サークル『教養強化』」は、監視社会について、特に、監視カメラについて、もっと教養を深めたいと思った。

 しかし、考えてみれば、フーコーとかの難しい本を文字面だけ何冊も追ったしても、カメラなどない絶対安全な自分の部屋かなんかで読んでいれば、学習効率は下がるのではないか。「習うより慣れろ」なんてことわざもあるくらいだ。監視カメラに己の身体を晒しながら監視カメラについての言説を学ぶ方が、学習効率は高まるのではないか。

 ということで、次回は、ディストピア社会について考える予定である。

 

 興味があれば連絡を下さい!!

kyouyoukyouka@gmail.com

サークル 『教養強化』さん (@kyouyoukyouka) / Twitter

 

 

 

第一回路上テント教養強化 議論のまとめ 

 「『人新世の資本論』ブームについて」というミーハーなテーマを設定して、第一回路上テント教養強化を某大学でやってきた。 

 サークルの部員が三人、部員ではない方が二人に加えて、部員でもなく予めの連絡もなかったが、たまたま通りかかって一瞬寄って行ってくれた方が一人の、合計六人という構成であった。 

 途中、大学の警備員に注意されるというアクシデントもあったが、二、三時間ほどの間、熱い議論を交わすことが出来た。大学の警備員が注意してきた件についてはこちら。 

 

kyouyoukyouka.hatenablog.com

 

 本記事では、「『人新世の資本論』ブームについて」というテーマで、どんなことを話したのかを記しておこうと思う。
 因みに、今週の金曜日に、全く同じテーマで同じことを、横浜のどこか、恐らく横国あたりでやります。参加希望者は連絡ください。

 


① 内容の確認

 『人新世の資本論』そのものの学習会ではなく、それをメタ的に分析するという会だったから、読んでない人でも参加できるという形式であった。参加者の殆どが読んでいたのだが、一応、質問、或いは補充や訂正を交えながら、以下のレジュメに従って、内容をざっと追った。本当に内容をまとめているだけで余り面白くないと思うので、レジュメについては割愛する。


② 疑問点・批判点

 内容をざっとさらった所で、踏み込んだ議論を始めた。

 ここから書くことは、僕自身の意見でも、或いは、サークル全体の意見でもなく、全体として、どんな意見が出たかを列挙するだけである。だから、各内容ごとを突き合わせると、矛盾も出てくるが、それは了承して頂きたい。


 始めに、第三章で批判されていた広井良典のゼミにいる方が、内容についての批判を始めた。論点としては、労働価値説の失効ということと、「脱成長コミュニズム」は、結局広井的な「脱成長資本主義」と同じではないかということであった。

 第一に論点が、労働価値説というのは、商品の交換価値≒価値についての言説である。アバウトに説明すると、商品の価値の大小は「人間が何時間くらい働いたらこの商品を再生産できるか」ということに依存しており、つまり人間の労働時間に価値の源泉を求めるという言説である。

 マルクスが生きていた時代は、労働価値説にリアリティがあったが、それは現代ではない。何故なら、雇用と労働との均衡が崩れてきているからだ、という様なことをおっしゃっていたと思う。経済学者である岩井克人の説も援用されていた(僕が経済学に本当に疎いのでこの部分はよく分からなかった。)。

 第二の論点が、脱成長コミュニズムと、脱成長資本主義(cf.『ポスト資本主義』広井良典)とが、何が違うのかという話であった。確かに、地球環境の限界を理由に、生産、消費を抑制しようという点も似ているし、市場の原理から離れたところに、ローカルなコミュニティに着目するという点でも似ている。斎藤がコミュニズムという言葉を使うのは、「コモンズ」という概念を用いてのことだが、そこにどれだけリアリティがあるか……。

 違いとしては、斎藤幸平が明確に、「グローバル」な観点を導入していることだろう。しかし、資本主義を超えたコミュニズムについて、その具体的イメージが持たれない以上は、それが目指す形態について、「ポスト資本主義」と「脱成長コミュニズム」が、結局のところ類似の感を持ってしまうのは、致し方ないところである。


 加えて、「使用価値経済への転換」ということの曖昧さについて批判する人もいた。

 斎藤はこの本の中で、論の本旨からズレるようなところでも、資本主義的消費のバカバカしさを語った。そうした、「価値」しか持たないバカバカしい生産/消費ではなくて、本当に「使用価値」(有用性)を持ったものを重要視する経済へと転換しようということであった。

  しかし、「使用価値」それ自体に大きさをつけられるのか。量的な「価値」に対して、質的な「使用価値」は、有用性の大小を判断することが難しい。パンとダイヤについて考える時に、貧困問題なんかを考えたりすると、確かにパンの方がダイヤよりも、「使用価値が高い」と言いたくなってもしまうが、そんなことを言ってしまっていいのか。

 商品が持つ有用性だけではなく、商品体そのものである物体それ自体を指して「使用価値」と呼ぶこともあるが、そういう意味で「使用価値」という言葉を使うと、問題はもっと分かりやすい。パンもダイヤもどちらもそれぞれの「使用価値」があるだけであって、どちらに優劣もつけられないのではないか。

 斎藤幸平は、進歩史観唯物史観と完全に分離したマルクス読解を提示することで、スターリニズムから決別、引いては、旧来の左翼的発想から決別したのだということを何度も強調している。しかし、「脱成長コミュニズムにおける使用価値経済への転換」において、結局、「地球環境の危機」という「真理」に対して、それに対処する為に、独断的に、左翼インテリがいらないと思った使用価値を排除して、必要だと思った使用価値を重視しようとする点では、良くも悪くも、昔ながらの左翼インテリなのではないかということが語られた。


 それと、これは斎藤が学者であるが故のしょうがないことだとは思うのだが、「脱成長コミュニズムを謳うのに、わざわざマルクスを持ち出す必要があったのか」という点を言う人もいた。主に第四章に関わる部分である。

 確かに、晩期マルクスの研究で、斎藤は国際的に認められているのだから、研究の最前線にいることは間違いないはずだ。しかし、それを新書で表現するにあたって、色々と無茶がある気がする。例えば、『ザスーリチ宛の手紙』について、その内容自体はそっけないが、それが三度も書き直されているということは、マルクスがこの文章をよくよく考えて書いた証拠であって、この文書こそがマルクスの真意だったのだ、と、斎藤は言うのだが、えぇ……と思ってしまう。

 最先端のマルクス研究として、斎藤の研究は物凄いのだろう。しかし、通常進歩史観として理解されるマルクスを、今更になって“あえて”取り上げて、“新書”として出す。説明できない所も色々あるのだろうが、こんな無理をしてまで、「晩年マルクスの『真意』」なるものを持ち出して、脱成長コミュニズムを語る必要はあったのか。マルクス的なフレームワークを用いながら、斎藤が持論を語るという形式の方が、自然に理解できる気がする……ということが語られた。


③ 肯定点

 広井良典のゼミの方の勢いが凄くて、色々と批判的なことが多く言われたが、肯定的な評価も為された。


 まず、シンプルに、時代を掴んだ上で、それなりにラジカルである本が売れているのはいいことだという人がいた。昨今、気に食わないことに、SDGsなんかが流行っていたりする。確かに、現代、環境問題は深刻なのだろうが、国家や企業と連帯しながら解決していきましょうみたいな風潮は気に食わない。

 『人新世の資本論』では、しっかりと、環境問題の重要性を認めた上で、「SDGsはアヘンだ」と、厳しい批判をする。こうした、ある種のラジカルさを持った本が売れているのはいいことだろうということであった。


 加えて、先の「使用価値経済への転換」という点にも関連するが、新書故に、少しずつ曖昧なところは確かに残しているが、それでも、全体の方針として、「コモンズ」の民営化、私有化、独占化に対抗するという論点それ自体は、賛成できるものだという意見があった。

 確かに、この本はあくまで「新書」である。そのことを考えると、説明しきれない曖昧さは必ず残ってしまうだろう。寧ろ、曖昧さを残しながらも、全体の論旨を何となく伝えることが大事という側面も、新書にはあるだろう。


④ 路上教養強化の今後

 全体として、こんな感じの議論が為された。

 サークルでは普段、タコツボの中でニッチなテーマを語り合っていることが多いのだが、それでは興味を持ってくれる人も少ないと思うので、こういったオープンな形での会を開くときは、それなりに広く話題性を持つものを、今後も取り上げていこうと思う。その中で、肯定的な意見も否定的な意見も含めて、様々な議論が出来ればよいだろう。 

 今後も関東、関西を中心に、「路上テント教養強化」は続けていく。どなたでも参加できるので、興味がある方は、以下のメアド、或いはTwitterまで連絡を。


kyouyoukyouka@gmail.com

サークル 『教養強化』さん (@kyouyoukyouka) / Twitter

 

路上テント教養強化開催!!!!!!!


 

 路上テント教養強化を開催する。

 大学や公園で、勝手にテントを張って、そこで読書会や勉強会を開いて、”教養強化“していくという企画である。

 第一回は、5月30日に、京都のどこか、恐らく京大のどこかで行う予定だ。テーマは、「『人新世の資本論ブーム』について」だ。興味があれば連絡して欲しい。

(訂正:サークル側の準備不足で、初回は6月4日か5日に、京都のどこかでやることになりました。テーマは変わりません。よろしくお願いします。)

kyouyoukyouka@gmail.com

 この企画は、『人新世の資本論』の読書会ではなく、それが大人気となっている現象をメタ的に話し合おうとするものだ。だから、人新世の資本論を読んでいる方が好ましいが、読んでいなくても、テントに来てくれて構わない。(ぶっちゃけてしまえば、そもそもテーマはお飾りみたいなものなので……)

 複数の部員がこの企画を気に入れば、定期的にやっていくことになると思う。

 以下の文章は、路上テント教養強化を開催しようとするまでの、サークル内部での経緯説明である。

 

 

 

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 サークルの結成から、早二か月が経った。

 当初はたった六人だった部員も、五人の新入部員が加わったことで、十一人の部員を抱えるサークルになった。創立メンバーの自分が言うのもなんだが、部員同士で大した話し合いもないままノリとテンションだけで作って、サークルの方針が何なのか、部員自身もよく分かっていない様なサークルに、こんなに人が入ったり、連絡をくれたりするとは思っていなかったので驚いている。

 しかし、問題がある。

 

 活動に物理的なベースがない……。

 

 まず、拠点がない。

 現状は非公認サークルだし、部員が十一人になった今も、何故か在籍している大学が全員違っていて、どこかの大学で公認を取って部室をぶんどるのは、まだまだ遠い話な気がする。まさかマンションの一室を借りたり出来るような金銭的な余裕があるはずもない。そうした中で、読書会もオンラインだし、交流会もどこかのカフェでやっているのが現状だ。

 宣伝方法に関しても、一応大学でビラを貼ったりということはしているが、ビラを見かけて連絡をくれる人は未だゼロ人である。最早、「Twitterだけでなく、リアルでも色々頑張ってます‼」というアピールとして、ビラを貼った画像をTwitterに載せることで、そのツイートを見た人が連絡をくれるという、最悪のシステムに陥りつつある。

 こんなことではだめだ。とにかく「部室」、或いは「アジト」と呼べるような拠点を用意しなければ、サークル活動の実態が作りづらい。

 

 ということで、「拠点」を手に入れた。

 

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記念すべき、サークルの拠点第一号!!!!

 

 

 当面の間は、これが拠点である。単なるアウトドアのテントにしか見えないかもしれないが、れっきとしたアジトだ。或る部員の実家に眠っていたテントを蘇らせて、「テント式拠点」を作ったのだ!

 

 英雄や哲人王を探していますとかデカいことを言っておいて、テントを手に入れただけでキャッキャキャッキャ言っている惨めな現状を思うと悲しくなってくる。もっとしっかりとした拠点を早く手に入れたいものだ。

 しかし、「テント式拠点」には、“不動産”の拠点にはない大きな利点がある。それは、テント式アジトは、移動が可能であるということだ。

 大学構内だろうと、どこかの公園の中だろうと、このテントを置いてしまえば、そこは、“サークル『教養強化』の拠点”になるわけである。どんな空間でも、我々の空間に出来てしまうのだ。

 ということで、これからは、その“テント式拠点”を使って、環境管理されまくった大学、或いは公園の中に、勝手にテントを置きまくって、勝手に交流会を開きまくって、勝手に“教養強化”をしまくる予定である。

 

 学生諸君よ、サークル『教養強化』のアジトに集え!!!!産学連携しまくった大学が、オンライン化とかなんだとか言って、勝手に自己解体してくれているのだ。これを機に、ネオリベ機関に頼るのはやめて、学生自身の手で、教養強化を始めよう!!!!

哲学ピンポンダッシュ開催!!!!!!!!!


 この度、サークル『教養強化』で、新しいオンライン読書会、「哲学ピンポンダッシュ」を開催します!!!!!!!!

 本記事は、そんな、哲学ピンポンダッシュの紹介記事である。

 

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 “哲学”を一通り学んでみたい……。

 哲学は、便利である。議論の抽象性が高い分、文学にでも社会現象にでも、あらゆるものを対象に出来てしまう。

 それに、例えば世界、存在、正義と言った、バカでかいことを語っているから、日常的な些細な事柄のことも、哲学的にこじつければ、なんだか壮大なことを語っているかのように見えてくる。哲学さえ押さえておけば、何でもかんでもそれっぽく語れてしまうのだ。

 そして何よりも、哲学はカッコいい。かつて呼ばれていたような、“諸学の王”という地位は失ってしまったかもしれないが、それでもやはり人文系学問の中で、他の領域とは異なった、クールな雰囲気を醸し出している。

 便利だしカッコいいし、哲学は最強である。

 議論になった時も、自分の知らない“○○哲学”みたいな観点から自分の意見を突然一刀両断されると、その余りのカッコよさからぐうの音も出なくなって、黙らされてしまう……。自分も哲学を知って、デカいことをエラソーに語ってみたい……。

 

 しかし、そんな最強の武器である哲学は、生半可な気持ちで学ぶには余りにもムズカシイ。

 『純粋理性批判』なんかを岩波文庫で読もうとすれば、議論が込み入りすぎて何を言っているのかチンプンカンプンだし、大抵の場合は死ぬほど長くて途中で読むのが面倒になってしまう。加えて、日本語話者に特有の問題としては、“哲学”と言われる時、基本は“西洋哲学”、つまり、外国語で書かれた哲学が基本である。まさか原語で読めるはずもないから、翻訳された文章特有のクドくてぎこちない日本語を読まなければならない。

 よく分からない込み入った複雑な議論が、滅茶苦茶ぎこちなくてキモイ翻訳日本語で、1000ページとか展開される……。しかも、一冊読むだけならまだしも、“必読の哲学書”みたいな本が、50冊とか100冊とかある……。そんなの読む気が湧く訳がない……。

 

 しかし、哲学の道をあきらめるのはまだ早い。「分かりたいあなたのための○○哲学入門」みたいなタイトルの新書が、岩波や筑摩でたくさん出ているではないか。それを読めば、お手軽に哲学を理解できそうな気がする!!

 と、いざ手に取ってみると、そんな期待は大抵見事に裏切られる。

 哲学を日がな一日中勉強している様な超博識が書いているから、「○○哲学入門」みたいなことを謳っているくせして滅茶苦茶ムズカシいということは少なくない。読んでいると、著者近影の澄ました顔が、「お前は入門書すらも分からないのか」とマウントを取ってきている様な気がしてきて、段々イライラしてくる。

 

 こんなんやってられるかボケ!!!!

 

 そんな、哲学書は読めないけど、それでもデカいことを語りたいという最低の願望を抱えた人のための読書会が、“哲学ピンポンダッシュである!!!!

 哲学ピンポンダッシュ、略して哲ピンでは、著名哲学書について、その原著は勿論読まない。入門書すらもまともには読まない。200ページとか300ページとか読むのは面倒すぎる。

 哲ピンで使うテキストは、入門書の部分的な抜粋か、或いは原著の末尾にある解説文である。いずれにせよ、何とかして30ページ前後に抑える。

 まるで、その哲学者の思想の全てが詰まっているかの様に、その30ページを皆で熟読して、色々な意見を言い合い、読書会が終われば、あたかもその哲学者の思想の内容と、その問題点までも完璧に理解したかの様に思い込む。それが哲ピンである!!!!

 暫定的な予定ではあるが、哲ピンで触れる予定の哲学者を挙げておこう。

 

マルクス ヘーゲル カント プラトン アナキズム ニーチェ 現象学(フッサール) 保守思想 ソシュール ハイデガー フロイト ウェーバー ウィトゲンシュタイン シュミット プラグマティズム ベンヤミン ラカン レヴィストロース アドルノ 吉本隆明 アルチュセール フーコー ハーバーマス アーレント ドゥルーズ デリダ 浅田彰 柄谷行人 スピノザ ネグリ 分析哲学 アガンベン 正義論 リバタリアン ジジェク………

 

 今の所、週に一度、三時間程のペースで開催して、西洋近代哲学をゴリゴリコンプリートしていく予定である。たった一年間やれば、50人もの哲学者を語れるようになるのだから、こんなに革命的なことはない。

 

 哲ピンは、サークル内部で密かにやっている真面目な読書会と違って、幅広い人に参加して欲しくて、テキトーに作られた読書会である。『教養強化』に連絡をくれる人は、大体既に教養が強化されまくっていて、初期からの部員が困り果てている。

 部員でなくても参加できるシステムで当面はやるつもりだから、前提知識などなくても、興味があれば連絡して欲しい。逆に前提知識がありすぎると部員が委縮しまくってしまう。

 週一ペースでやっていくから、参加したい時だけ参加することも可能である。

 参加にあたっては、指定するテキストを前もって準備しているだけでいい。読書会中に黙読する時間を用意するから、予め読んでくる必要はない。テキストの方も、どこの書店、或いはどこの図書館にでも置いてあるようなものを選ぶ予定だ。

 因みに第一回は、5月22日21時から、筑摩新書の『世界哲学史6』の途中の30ページくらいを抜粋して、カント哲学をやる。zoomのURLは、直前にTwitterでアップする予定だ。我々のTwitterアカウントはこちら。

サークル 『教養強化』 (@kyouyoukyouka) | Twitter

 

 

*1

 

 

 来たれ、反知性主義者よ。革命的な、あまりに革命的な反知性主義読書会が、ここに始まる。

 哲学が、その門に我々を入れてくれないのであれば、入門などこちらから願い下げだ。我々は、哲学の門の前で、しっちゃかめっちゃかに、とにかくピンポンダッシュをしまくろう。

 これが真の、”教養強化”だ!!!!!!!!!!

*1:

*謝罪と訂正

 zoomのURLは、直前にTwitterであげるという風に記述しました。しかし、予想以上に本読書会の反響が大きく、こちらで参加を希望されている方の人数を予め把握しておきたいということになりました。ですので、参加したい方は直接連絡下さるようにお願いします。

 一度の読書会に参加される方が多すぎることは、哲学ピンポンダッシュの趣旨に反するということで、その様に判断しました。よろしくお願いします。

 

差別が存在しない世界の居心地の良さについて

執筆者:ホシ

 

シミズ同志によるブログ開設・活動方針の発表からはや一ヶ月弱経つ。ブログの更新を今か今かと待ち受ける読者諸氏(3人もいれば良い方である)のために、文章を投稿したいと思う。

 

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わからない、と思うことがある。

 

例えば、大学の門前で、奇怪な格好をした学生がいて、何か熱心に訴えかけている。しばらくすると腕章をはめた教員が現れて、彼を取り囲む。彼は語気をますます強め、なぜビラすらも配れないのか、自治を守れ、大学に自由を、学生に自由を、と叫ぶ。

 

わからない。なぜ彼はそんなに熱心なのか。なぜそうまでして抗議するのか。大学は楽しいところじゃないか。私たちは十分自由じゃないか…訝りながら、あるいは、全く気に留めることなく、口論を横目に、昼休みを終えた学生たちは次の授業に向かう。

 

大学に抗議するというなどということは日々の安寧を享受する我々一般学生にとって縁の遠い話であり、所詮一部の「アヤしい連中」のやることのように思える。しかし本当にそうか。絓秀実は次のように書いている。

 

フェミニズム、ポストコロニアリズム現代思想、文学、クリエイティヴライティング、音楽、美術、演劇、その他諸々のサブカルチャー、広告、イヴェントのマネージメント、IT技術等々といった、かつては『自治的』なサークルが担い、そこで規律/訓練されて人材を輩出してきた課題(そこには、政治的なものも多く含まれている)が、学生消費者主義=大学改革の名の下に、正規のカリキュラムに登録されるようになった。」

(『ネオリベ化する公共圏』)

 

これは衝撃的な事実である。なにせ、今大学で開講されている『フェミニズム概論』だの『アカデミック・ライティング』だの、果ては『プログラミング演習』だのといったキラキラした科目は、もともとは正門前で演説するあの「アヤしい連中」と選ぶところのない輩がやっていたことだと言うのだ。大学に異を唱え、アウトサイダーとして活躍していた人々はしかし、今やアカデミズムの中心に躍り出た。大学の内部に入り込んで、実効力を及ぼせるようになった。例えばフェミニズムなら、大学の内部から大学を批判し、「家父長制的体制」を改めさせることができるようになった。

 

これは大いなる進歩だ、という声が聞こえる。

 

この主張は正しい。かつて「所詮学生のたわごと」と一顧だにされなかった領域が、より多くの人に認知され、より社会に浸透していったのだから。

 

これは、「マイノリティの登録」と言い換えられる。つまり、社会外部に存在するマイノリティ的な運動を「登録」して内部に包摂するのである。(そして当然、もとマイノリティであった者らの主張は一部反映される。)大学においては、絓が述べるように「カリキュラムへの登録」という形で行われるほか、「より良い大学作りのために取り組むべき課題」として取り入れられる事になるだろう。

 

「登録」は、しかし、体制の変革を意味しない。大学を脅かすかと見えた主張は、今や脱-政治化の過程を経て「実証的」な「社会学」である。主張とまで行かなくとも大学生活のいわば傍流をなしていたサブカルチャーは、今や講義室の中にある。ラジカルな批判をしていた活動家たちは牙を抜かれ、ジャンクな文化はただの物珍しい文化として消費されるようになった。

 

それだけではない。倦まず怠らず勤勉になされてきた「登録」は、社会外部の「アヤしい領域」を恐るべきスピードで縮減させていく。そして「登録」が一通り済んだ頃、体制はこう宣告する。「さて、もう差別はなくなりました。未だ解決すべき問題はありますが、我々はそれら全てを把捉しています。だから安心してください。そしてともに残る問題の解決に取り組みましょう…」

 

差別が存在しない、すばらしい新世界。余計なことさえしなければ、安寧は補償される。なんと居心地の良いことか。

 

だが一方で未だ包摂されざる領域はグロテスクなまでに強調され、「存在するはずがないもの」が「存在する」という矛盾が現前する。「アヤしいけれど面白そう」は「アヤしくて気味が悪い」へと変貌する。大学仕込みの脱色されたサブカルチャーにかぶれていながら、大学前で自由を叫ぶ「得体の知れない」集団を「気味が悪い」と切って捨てる自己の欺瞞に、学生たちは気づかない。

 

耐えざる「登録」の過程は、反体制的勢力を包摂すると同時に、他の集団を「未登録」の存在として際立たせる。「動物化」(東浩紀)した学生たちは「アヤしい連中」の「アヤしい行動」を「わからない」「理解できない」と醜い鳴き声を上げながら、反射的に避けるように調教されている。

 

だから我々は断固として「誤った答え」を出し続けなければならない。すなわち、「体制の内部に入り込み、内側から変えていくこと」=「進歩」を拒否し、体制から睨まれ、嫌われるようなことをし続けなければならない。後退し続けなければならないのだ。どうせ奴らが「進歩」して進んでいく先はロクな場所ではない。そんな心中に付き合いきれないから、我々ははるか後ろを目指すのだ。